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●60代

1958年(昭和33年)60歳
3月、『人間と才能』を大東京社より出版。同月、東京体育館で第4回全国大会、第6回卒業式挙行。チェロ科で初の卒業生を出す。9月、「才能教育通信」(タブロイド判、旬刊)を才能教育研究会(松本)より創刊(現在に至る)。この年、アメリカ・オハイオ州のオベリン大学で行なわれたオハイオ州弦楽指導者会議で第1回全国大会の記録映画がクリフォード・クック同大教授により紹介され、800名の子どもたちによるバッハのドッペル・コンチェルト大合奏に驚嘆の声が上がり、スズキ・メソードの海外発展のさきがけとなる。この年『音楽表現法』(上巻)を全音楽譜出版社より刊行。

1959年(昭和34年)61歳
2月、「才能教育」を通巻115号から「才能と教育」(A5判、月刊)と改題し発刊。5月、通巻118号をもって終刊。6月、第1回全国大会の映画を見たマスキンガム大学音楽部のジョン・ケンドール教授が外国人として初めてスズキ・メソード研究のため来日。この年、『ヴァイオリン指導曲集』(全10巻、全音楽譜出版社)が完成。

1960年(昭和35年)62歳
5月、『奏法の哲学ム音に座禅して三十年』、12月、『歩いて来た道』を音楽之友社より出版。

1961年(昭和36年)63歳
4月、チェロの巨匠パブロ・カザルス来日。東京・文京公会堂で400人の子どもたちの合奏を聴き、感動のあまり「音楽は世界を救うであろう」と語る。11月、信濃毎日文化賞受賞。

1962年(昭和37年)64歳
3月、第8回全国大会参加のため、ジョン・ケンドール教授再来日。才能教育のスズキチルドレンによる訪米演奏旅行が具体化。

1963年(昭和38年)65歳
3月、オベリン大学クリフォード・クック教授初来日。訪米演奏旅行の招請を約す。同月、横浜文化体育館にて第9回全国大会、第11回卒業式開催。ピアノ科では初の卒業生を出す。

1964年(昭和39年)66歳
3月5日、初のアメリカ演奏旅行出発。鈴木会長夫妻、本多正明常任理事と2名の指導者が、6~14歳の子どもたち10名を伴う総勢19名。ニューヨークの国連ハマーショルド・ホール、フィラデルフィアでの全米音楽指導者会議など、アメリカ各地を訪問。"スズキの衝撃"とマスコミや教育・音楽界から評価を受け、圧倒的な成功をおさめた。以後、全世界から高い評価を受ける発端となる。

1965年(昭和40年)67歳
6月、海外初の指導者講習会をアメリカのオベリン、ボルチモア、イリノイ、シアトルで開き、"スズキ・メソード"を直接教授。

1966年(昭和41年)68歳
3月27日、第12回全国大会、第14回卒業式開催。参加者急増のためこの年より会場を東京・九段の日本武道館に移す(以後、1970 、71 年を除き現在まで)。6月、アメリカ・ボストンのニューイングランド大学より名誉音楽博士号を受ける。8月、『愛に生きる』を講談社より出版。10月、第2回訪米演奏旅行、この頃から全米各地でスズキ・メソードによる音楽教室が次々開かれる。

1967年(昭和42年)69歳
3月26日、第13回全国大会開催。アメリカ弦楽指導者協会のヴァン・シックル、カール・シュルツの両博士が出席。5月、「才能教育通信」(タブロイド判)を旬刊から月刊とし、現在に至る。同月、A5判、雑誌型、季刊「才能教育」を本部より創刊、現在に至る。6月、アメリカ・ルイビル大学より名誉音楽博士号受ける。8月、松本市深志に才能教育会館落成。同月、第18回夏期学校にアメリカ弦楽指導者協会メンバー68名が参加。10月、第3回訪米演奏旅行。

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