鈴木鎮一先生の在りし日のお姿はかなりの数があります。ここでは、あまり露出していない珍しい写真を紹介します。いずれもスズキ・メソード会員向け季刊誌「SUZUKI METHOD」で連載している記事ですが、特別にご覧いただきましょう。お楽しみください。


●鈴木先生が寄贈したライラック・ガーデンにて

 松本の才能教育会館の前に、かつてライラック・ガーデンと呼ばれた公園がありました。この地に、春を告げるライラック(フランス語でリラ)の植わった公園を建造することを提案されたのが、ほかならぬ鈴木鎮一先生で、1968年のことでした。61年にチェロの巨匠、カザルスが来日し、文京公会堂でスズキ・メソードを学ぶ子どもたちの演奏を聴き、大きな感動に包まれたり、66年には鈴木先生の「愛に生きる」が出版されたことで、世界中からたくさんのお客様が松本を訪れていた頃です。
 鈴木先生は、「国際友情の園」として世界各国からの寄付をもとに、このライラック・ガーデンを造り上げ、市制60周年を迎えた松本市に寄贈したのです。もちろん子どもたちの演奏が開園の際に披露されました。
 カザルス像も鈴木先生の発案で78年に建てられました。この写真は、80年頃の撮影です。房をなすつぼみと、白や淡い紫色の花弁は、香水にもなるほど上品な香りを漂わせ、先生のお気に入りでした。現在、この場所は、まつもと市民芸術館に変わり、カザルス像もライラックも屋上に移されました。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.164より
撮影:林 宰男




●鈴木先生が感銘を受けたストコフスキーの言葉

 ニューヨークの五番街に住んでいた世界的指揮者、レオポルド・ストコフスキーを鈴木先生が訪ねたときの写真を紹介しましょう。ストコフスキーと言えば、映画「オーケストラの少女」や「ファンタジア」にも出演し、戦前のフィラデルフィア管弦楽団を世界有数のオーケストラに成長させたことでも知られています。この時、鈴木先生は69歳、ストコフスキーは86歳でした。
 二人はすぐに意気投合しました。それもそのはず、ストコフスキーは以前から鈴木先生を尊敬し、敬愛していたのです。「ミスター・スズキ、あなたがこの国の弦楽器界に貢献した功績は計り知れません」と挨拶し、10チルドレンの素晴らしい演奏を讃え、日本からさらに多くのスズキ・メソードの指導者が海を渡って来ることを希望されたのでした。 そして、奏法における右手の重要性を説き、「だからこそミスター・スズキの存在は何よりも貴重です」と鈴木先生の肩を抱いたのです。最後にいただいた言葉が、右のサインでした。"Not harm!"
 そうです、鈴木先生の「誰の心も瑕つけず」の言葉の原点はここにありました。1968年4月20日のことでした。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.165より




●鈴木先生の新婚時代

  まるで銀幕から飛び出してきたような気品と輝きの持ち主。そうです、鈴木鎮一先生とワルトラウト夫人の新婚時代のポートレートです。二人は、1925年頃、ベルリンのホームコンサートで出逢いました。そして互いの愛を深め、28年2月8日にベルリンの教会で盛大な結婚式を挙げます。しばらくすると「母危篤」の知らせ。二人は、あわてて名古屋に戻りました。異国の地で、好奇の目にさらされることも多かった夫人を支えたのは、もちろん鈴木先生でした。下の犬を連れての散歩の写真は、ちょうどその頃です。二人で広大な自宅の周りをよく歩きました。
 章、二三雄、喜久雄の三人の弟と「鈴木クワルテット」を結成したのもこの頃です。母の死を看取った後、ほどなく東京に活動の拠点を移します。当時は他に室内楽団が、あまりなく、各地のステージでの演奏、録音、NHKへの出演など、その名声は日本国中に知れわたるほど。まさに「鈴木クワルテット」は、ひっぱりだこだったのです。束の間の夏休みには、二人で軽井沢の別荘を借り、旧知の徳川義親侯爵の別邸を訪ね、素晴らしい夏の午後を過ごしたのでした。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.166より




●帝国音楽学校時代の同僚 奥田良三氏との共演


 2枚とも鈴木クワルテットと演奏旅行をともにすることの多かったテノール歌手、奥田良三さんとの思い出深い写真です。奥田さんは、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院やベルリン音楽大学で声楽を学び帰国した後、映画「狂乱のモンテカルロ」の主題歌「モンテカルロの一夜」を歌ったり、「夜明けの唄」や「防人のうた」などのヒットで、よく知られていました。鈴木先生とは、帝国音楽学校での同僚であり、年齢も5歳下と近く、鈴木クワルテットとの演奏旅行は、ことのほか楽しいエピソードに包まれています。旅館で誰かが朝寝坊していると、奥田さんや鈴木先生の弟の章さん(上段の写真、右から2人目)が、水で濡らしたタオルを絞り、寝ているメンバーの顔に乗せ、飛び起きるのを楽しんだりしました。長崎でのコンサートでは、揃って燕尾服を着てステージに向かった時に、章さんがスッテンコロリと仰向けに転び、会場から大笑いのこともありました。この時ばかりは、ベートーヴェンの深刻なフレーズもお笑いになってしまったそうです。奥田さんの命日は、1月27日。鈴木先生の26日とは1日違いと、ここでも仲の良さがわかります。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.167より




●自然への畏敬の念を表現 絵心あふれる日々

 卒業のお祝いにいただく色紙に描かれた絵の作者は誰だろう? そんな疑問が頭をかすめた方もいらっしゃるでしょう。その答えは他ならぬ鈴木鎮一先生です。右の写真のように、時間があると絵筆を取り、一枚一枚に自然の美しさを描写し、含蓄のある言葉と書家を凌駕する筆致で作品を作り上げていきました。
 鈴木先生の絵心は、戦前から発揮されていました。ドイツ留学を終え、妻ワルトラウトを連れて帰国されてから、本格的に鈴木クワルテットの活動を始めた1930年頃、避暑地軽井沢での練習の合間にもスケッチブック(下の写真)は常に手元にあったほど。千ヶ滝や浅間山の様子をスケッチしながら、文字をしたためておられるのも鈴木先生ならではのスタイルです。

「気がついて みればみるほど 秋の色
 夕暮の美しさに、ついうっかりとつりこまれてスケッチを始めた。しかし、まったく無謀であったことがわかり、やめにした。自然は実に美しい。刻々に変わってゆく雲の姿、山々の姿、入り陽をうけて真紅に染められてゆく浅間山の噴煙など、うっとりと眺め入るよりほかになし」

 鈴木先生は、絵筆のない場所では、紙を丸めてにわか仕込みの筆にするなど、アイデアマンでもありました。後年、霧ヶ峰の夏期学校で子どもたちの目の前で描かれた絵の素晴らしさを思い出す人も多いことでしょう。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.168より




●釣り竿の先に去来する思い

 東京の釣堀で、じっと水面を見ているのは、若き日の鈴木鎮一先生です(右の写真)。時代は戦時色が濃くなり、不安と動揺の中で、誰もがひたすら生きる道を歩んでいた1940年(昭和15)頃。数年後には鈴木先生ご自身も、東京での生活から長野県木曽福島に疎開を余儀なくされる頃でした。
 ある日、帝国音楽学校での盟友の青木謙幸先生を伴って、水郷を訪ねます。うららかな春の陽射しを受け、人っ子一人見えないたんぼ田圃とひばり雲雀のさえずりとが醸し出す風景は、戦時下であることを忘れさせるものでした。青木先生は後年、「これが鈴木先生との最後のお別れになるかもしれない」と寂しい思いに浸っていたと述懐しています。数日後、二人は箱根へバス釣りに行きます。紺碧の湖水と樹林の織りなす自然の懐に包まれ、この時も戦時中のう憂さをしばし忘れさせました。鈴木先生の脳裏に去来した思いは、なんだったのでしょう。
 著書『愛に生きる』(講談社現代新書、1966年初版)の中に、釣り好きのことに触れた場面があります。

わたしは釣りが好きで、ふな釣りによく水郷へ行きました。そして一日楽しむと、釣ったふなを水に帰して引き上げるのがつねでした。「楽しませてくれてありがとう」という気持ちです。

 その後、鈴木先生と青木先生は、相次いで木曽福島に疎開され、終戦までの日々を過ごされたのです。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.169より




●1960年頃の講演旅行

 鈴木先生が才能教育運動を全国に広めるために、精力的に各地に出かけたのは、1948年頃からでした。「日本中の子どもが日本語をしゃべっています」と語りかける講演は、どの街でも驚きを持って迎えられたのです。そのお話の中から、「子どもたちは皆よい頭脳を持っていること、そしてどの子も高い能力へ育てる教育法があること」が伝わり、さらには「能力は生まれつきではありません」と話す鈴木先生の講演は、同行した子どもたちの素晴らしい演奏で、説得力にあふれていました。  1960年になると、全国大会や夏期学校、指導者研究会など、現在でも三大行事と呼ばれるイベントが定着しつつありました。また、全国大会を記録した映画フィルムがアメリカの音楽教育界に衝撃を与え、ジョン・ケンドール先生が来日した翌年にあたります。鈴木先生は、海外への飛躍の夢と同時に、東北、北海道や中国、九州への運動の拡大と定着を強く感じていたのでしょう。福島、仙台、青森、札幌、釧路を講演旅行したのが60年、名古屋、武生、広島、呉、熊本、中津、小倉、大阪を巡ったのが62年のことです。いずれも10日間ほどの日程でした。
 どの会場でも、鈴木先生の熱い思いが、聴衆の大きな共感を呼び起こし、万雷の拍手が続きました。終了後も鈴木先生を取りまいて去りかねる人々が多く、運動の拡大に強い手応えを感じることができたのです。
 各地で産声を上げた才能教育運動が、鈴木先生の訪問でさらに勇気づけられたのは、想像にかたくありません。何よりも、噂の才能教育運動の生の姿を体験した一般の人々の驚きたるや、想像以上だったのです。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.170より




●戌年生まれの大演奏会

 戦前の鈴木鎮一先生の、ある日のエピソードをご紹介しましょう。犬好きな方には、とても微笑ましい話題です。
 1934年(戌年)3月17日のことです。名古屋市公会堂に大集結したのは、戌年生まれの演奏家ばかり。指揮の山田耕筰、近衛秀麿、テノール歌手の藤原義江、ソプラノ歌手の三上孝子をはじめ、日本の音楽史を彩る音楽家たちの名前が、ずらりと並びました。1898年(戌年)生まれの鈴木先生は、この時、35歳! もちろん出演し、ハイドンの「メヌエット」やグレトリーの「タンブラン」など3曲を披露しました。
 上のチラシには、「燦然たる戌の春を祝福すると同時に、犬に対する敬意と賞賛の言葉を惜しみなく表わしたい」と、この演奏会の目的が真剣に記されています。しかも主催「ワンワン同人會」とあり、その軽妙さと粋な企画に驚かされます。
 1934年といえば、ドイツではヒトラーが総統になり、後年、アメリカ映画「独裁者」でそのヒトラーの台頭を痛烈に批判した、チャップリンの名作「街の灯」が日本公開された年です。きな臭い雰囲気が日本にも徐々に浸透して来た頃だけに、こうした演奏会の存在は、とてもユニークな試みだったといえます。
 おりしも、「忠犬ハチ公」の物語が世に知られ、この演奏会の翌月の4月には渋谷駅頭に銅像が建立され、除幕式が行なわれました。上のチラシにも「ハチ公」への賛美などが綴られ、戌年生まれの演奏家たちの熱い心意気が感じられます。さぞかし、当日のステージは楽しく、面白く、戌年ならではの連帯感を感じさせる、素晴らしい響きが奏でられたことと推測できます。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.171より




●メニューインとの交流


 少年時代、神童の名をほしいままにし、若くして世界の一流ヴァイオリニストの中に加えられたユーディ・メニューイン。バッハやベートーヴェン、ブラームスなどドイツ音楽の伝統を受け継ぐ音楽家の一人でした。
 そのメニューインと鈴木先生がアメリカで出逢うのは、1974年3月、カリフォルニア州アナハイムで開かれた全米弦楽指導者大会の舞台でした。音楽教育にも力を注いでいたメニューインにとって、全米の指導者とともに、当時、一大ブームとなっていたスズキ・メソードを研究することは、とても興味深い事柄だったのです。そのため指導者協会のクロットマン会長は、64年の第1回海外演奏旅行に参加した粕谷ひとみさん(現 関東地区ヴァイオリン科指導者)、深沢いさ子さんの10年後の成長を見届けようと、鈴木先生とともに2人をこの大会に招きました。アメリカ中がスズキ・メソードを真正面から捉えている様子が、よくわかります。メニューインとの交流は、その後も続きます。そして、鈴木先生がお亡くなりになった翌日(98年1月27日)には、次のようなメッセージが鈴木先生の奥様、ワルトラウト夫人に寄せられました。
 「生涯の伴侶であられた鈴木鎮一先生は、世界中の人々に音楽の歓びを届けることに、大変貴重な貢献をされました。若者たちが自ら演奏し、音楽を楽しむことができる、という高い目標に向かって、率先して力強く歩まれたのです。なんと素晴らしい生涯でしょう。先生はお仲間の方々や数限りない親子、世間一般から感謝されました。それは誰もが、音楽に没頭する若者たちの生み出す美徳と優しさを受け取ることができたからです。鈴木先生は、未来へ永く続く遺産を遺されました。これは、きわめて稀なことです」

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.172より




●才能教育会館、建つ。


 才能教育会館を訪れたことのある会員の方は多いでしょう。歴史を紐解くと1967年5月の完成に至るまでに、数多くの試練と困難が立ちはだかっていました。60年9月の才能教育通信は、「才能教育のふるさと松本に会館を建設しよう」と大見出しで建設推進の決意を載せています。破竹の勢いで広がる才能教育運動の総本山を一目見ようと国内外の来訪者が引きも切らず訪れる時代でした。当時の松本音楽院は木造でしたので、ウィーン・アカデミー合唱団がバスで訪れた時には、あまりの暗い雰囲気に一人もバスから降りようとしなかったというエピソードがあるほどです。
 「この建設を会員一人ひとりの手で」と寄付やカンパの願いも同時に載りました。運動は粘り強く続き、61年1月の通信では、会館の青写真とともに、積立金を集める方法も紹介。夏期学校で「タレントコーヒー」を出店し、その売り上げ献上も一つのアイデアでした。それでも一時は建設が棚上げになる危機もありましたが、7年の歳月を経て、ようやく完成した時の歓びは、ひとしおだったようです。67年8月の夏期学校にあわせて行なった落成祝賀式で、鈴木鎮一先生は「ようやくわれわれの運動の家ができました。この運動がすべての子どもの幸せのためになるよう、みなさんと一緒に進んでいきたい」と述べておられます。アメリカ弦楽指導者協会68名のメンバーとともに日本の指導者も一緒になって演奏した「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」など、祝賀の歓びに満ちた空気が伝わってくるようです。
 以来、43年の月日が流れました。さすがに建物は古くなりましたが、全国の会員や、ここで学ぶ国際スズキ・メソード音楽院生に流れる熱い思いや志は、変わることはありません。

季刊誌「SUZUKI METHOD」No.173より