ここでは、鈴木鎮一記念館に来館される皆様から、よく聞かれる質問にお答えしていきます。メールでのお問い合わせの中からも、皆様にお知らせできる項目については、今後も増やして行く予定です。
お問い合わせはこちら


Q1 名古屋生まれの鈴木先生が、松本で才能教育運動をするようになったのは、どういうきっかけからですか?



Q1 名古屋生まれの鈴木先生が、松本で才能教育運動をするようになったのは、どういうきっかけからですか?
A1 鈴木先生の年譜でも概要を紹介していますが、ここで詳しくお知らせしましょう。戦時中、鈴木先生は木曽福島に疎開していました。これは、父の経営するヴァイオリン工場が軍需工場に転用され、水上飛行機のフロートを作ることになり、材料となる檜の調達が困難になっていたため、鈴木先生は父に志願して、檜の調達をして名古屋に送り込む製材所の工場長に就いていたのです。そして終戦を迎えます。そこに、中部日本新聞の鍛冶倉邦二さんが訪ねました。その時のやり取りは、次のようなものでした。
鍛冶倉「松本に音楽院を作りたいのです。帝国音楽学校で鈴木先生がご一緒だった声楽家の森民樹先生が松本に疎開されています。鈴木先生もぜひ参加していただき、力を奮っていただきたいのです」
鈴木「私はある程度誤ってでき上がった大人のヴァイオリン奏法を修繕するような教育を、かつて東京で十分やってきました。私がやりたいのは、幼児教育です。子どもたちの可能性をどう伸ばして行くか、音楽を通して将来のよい国民をどう育てるか、その基礎を作りたいのです。私の考えに賛成していただけるなら喜んでお手伝いしましょう!」
こうした鈴木先生の考えは、大きな賛同を得たのです。ここに音楽院への参画が決まりました。
そして、1946年9月、松本市下横田の木造二階建ての検番だった建物を借り、松本音楽院の看板が掲げられました。ここに、名実ともに才能教育運動がスタートしました。主な講師陣は次の方々です。

鈴木先生が院長。
ヴァイオリン講師に鈴木鎮一先生、奥村偵三郎先生、松井宏中先生、前田忠行先生。
ピアノ講師に鈴木静子先生、青木章子先生。
声楽講師に森民樹先生、館石唯雄先生、といった布陣でした。
加えて、松本に住む、渡辺幾太郎さん、神田平四郎さん、藤本徳次さん、能勢豊さん、熱血漢の記者、鍛冶倉邦二さんたちをはじめ、犬飼歯科医院の先生ら父兄の協力も大きく、東京時代からの親友、青木謙幸さんも才能教育運動を盛り上げるために奔走しました。
こうした経緯で、鈴木先生が唱えた才能教育運動は、松本に誕生し、今日に至るのです。