誕生から10代 20代 30代 40代 50代 60代 70代 80代 90代

●50代

1948年(昭和23年)50歳
4月、同志会を「才能教育研究会」と改称、松本に本部事務局、東京に東京事務所を開設し、所長に青木謙幸(当時理事)が就任。同月、松本市郊外本郷小学校で"落伍者をつくらない"才能教育の実験教室が上條茂校長、田中茂樹教諭らの尽力で開始。上條校長が病に倒れるまで3年間続く。11月、東京事務所より機関紙「才能教育」(タブロイド判)創刊。この間、長野、東京、愛知、三重、岐阜などで精力的に講演活動。各地で次々と支部が結成される。『才能教育』を才能教育研究会より出版。

1949年(昭和24年)51歳
4月、松本音楽院の2階に才能教育による幼児教育をめざし「記憶力養成実験教室」を開く。後に「幼児学園」と呼称。12月、「才能教育」を「タレント」(A5判雑誌型、月刊)と改称。

1950年(昭和25年)52歳
8月、松本音楽院の生徒たちとともに松本市の少年刑務所を慰問。約600人の青少年に講演と子どもたちの演奏を行なう。以後、毎年のように訪問し激励。9 月、機関誌「タレント」を東京・タレント社より発行。10月25日、「社団法人才能教育研究会」が設立認可。『ヴァイオリン奏法と実習』を音楽之友社より出版。

1951年(昭和26年)53歳
5月、中日文化賞を受賞。7月、『才能は生れつきではない』を葦会より出版。8月、長野県霧ヵ峰高原で第1回夏期学校開催。全国25支部から109名の子どもたちと11名の指導者が集う。12月、『私の奏法』を全音楽譜出版社より刊行。

1952年(昭和27年)54歳
1月、「タレント」を終刊し(通巻22号)、才能教育研究会本部より「才能教育会報」(A4判、月2回刊) を発刊、通巻号数は「タレント」から受け継ぐ。10月25日、東京神田の共立講堂にて才能教育ヴァイオリン科の第1回卒業式挙行。卒業生は5歳8ヵ月の最年少をふくむ196名。なお、卒業は年齢と一切関係なく実力のみで認定と決める。この年、19歳の豊田耕兒、パリ音楽院へ入学し、エネスコにも師事。

1953年(昭和28年)55歳
1月、本部より理論研究誌として「才能」(A5判雑誌型、年刊)が刊行されたが1号で終刊、「才能教育会報」を通巻35号から「才能教育」と改題、旬刊とする。8月、第3回夏期学校開催。会場を霧ヵ峰高原から松本市内へ移す。10月25日、第2回卒業式挙行。卒業生は、この年から採用の段階制に則り、初等科253名、高等科93名、研究科17名。

1954年(昭和29年)56歳
1月、『子供の運命』を才能教育研究会より出版。9月、通巻69号より「才能教育」をA5判、雑誌型、月刊とする。この年、卒業式は一般学校の時期に合わせるため挙行せず、翌年3月開催と決める。

1955年(昭和30年)57歳
3月27日、東京体育館にて第3回卒業式挙行後、第1回才能教育全国大会開催。約1,200名の子どもたちによるヴィヴァルディの協奏曲イ短調など、ヴァイオリンの大合奏が大きな反響を呼ぶ。卒業生613名。

1956年(昭和31年)58歳
3月30日、第4回卒業式および第2回全国大会を名古尾市金山体育館で開く。7月、『育児のセンス』を理想社より出版。10月、第1回才能教育指導者研究大会を浅間温泉で開催、参加者43名。

1957年(昭和32年)59歳
7月、松本市内の松商学園講堂にて才能教育幼年期教育セミナー開催。同月東京事務所から引き続き「才能教育」を刊行。

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